「市民金」に揺れるドイツ:労働意欲を削ぐ福祉改革の行方
ドイツの景気が急激に落ち込んでいる。主原因は高すぎるエネルギー価格、高すぎる税金、肥大した官僚主義。それに加えて、足りない労働力も挙げられているが、これはちょっとクエスチョン・マークだ。
21年12月にできた社民党政権は、その翌年から「市民金=Bürgergeld」という新しい社会保障制度の制定に取り組み、早くも23年1月から支給を始めた。貧しい人は誰でも補助を受けられる、いわゆるベーシック・インカムの導入である。
この「市民金」の何が凄いかというと、貧乏な人が申請すれば、ほぼ漏れなく貰えること。当然、貧乏の原因はさまざまで、病弱だとか、あるいは親の介護などで働けずに貧乏になってしまった人もいれば、働けるけれど働かずに貧乏になった人もいる。後者のケースは低賃金所得者が多く、しかも、たとえ働いても、その稼ぎが「市民金」とほとんど差がないから、働く気をなくす。これは、その人が怠け者というより、制度が悪いとも言える。
福祉というのは優れた互助組織であるけれど、生活保護に関しては、働かずにもらえる手当と、働いて得られる賃金に明らかな差がなければ、絶対に機能しない。
では、この破格の市民金の論理的根拠は何かというと、ドイツ基本法(憲法に相当)の第1条第1項が、「人間の尊厳は侵されることがあってはならない。これを尊重し、保護することが、全ての国家権力の義務である」と定めていることだ。「人間の尊厳」の保持は、昨今では介護の現場などでよく使われる表現で、基本的人権の一つだ。
ハイル労働相(社民党)は生粋の社会主義者で、絶えず人類の“平等”への配慮を怠らず、しかも、左派の政治家の例に漏れず、税金をばら撒くのが得意。氏の考えでは、基本法第1条第1項の言わんとしていることは、人間は生まれたその日から、凍えたり、飢えたりせず、ちゃんと屋根のあるところで寝て、さらには、社会から弾き出されることのない人間らしい生活を送る権利があるということだ。
しかも、これは、何かの条件をクリアすれば貰えるのではなく、人間が生まれながらにして持っている権利なので、働く能力があるかとか、働く気があるかということとは無関係に、国家はすべての国民にそれを保証する義務がある。だから市民金の導入は、ハイル氏によれば「過去20年で最大の社会改革」。しかも市民金は、「人々を持続的に労働市場に連れ戻すことができる」と氏は主張したのだった。
しかし、実際にはそうはいかない。
冒頭に記したように、現在のドイツは不況の上、人手不足が甚だしい。ところが、24年5月、労働が可能であるにもかかわらず市民金を受領している人の数が400万人を超えた。しかも、IAB(労働市場と職業研究所)の調査によれば、市民金の支給が始まって以来、失業から就業に戻る人も減ってしまったのだ。
そもそも市民金については、23年に支給が始まる前から批判が絶えなかった。公式の支給額はそれほど多くないにせよ、普通の労働者が、少ない給料の中から捻出しなければならない家賃、暖房費、保育園料などが、市民金受領者には全額補助される。
また、従来の生活保護は、財産をほぼ使い切ってしまわなければ貰えなかったが、市民金では4万ユーロまでの貯蓄、あるいは不動産の所持も認められている。さらに、斡旋された就職を正当な理由なしに断っても、1ヶ月間、支給金が10%減額されるのみ。また、ドイツは子供手当が高額なので(2024年現在、子供一人当たり1ヶ月250ユーロ=約4万円)、子沢山の受領者なら、それこそ薄給の独身者はもちろん、年金生活者よりも収入が多くなっても不思議ではなかった。
現在、ドイツの都会は住宅難で、普通の労働者は高い家賃に苦しんでいる。ところが市民金の受領者は、申請した家賃がほぼ自動的に支給されるため、一般の国民の血税で、タダで住宅に住めるという現象が起こっている。当然、不動産価格も高止まりだ。国民の不満は募っていた。
ところが、市民金の施行が始まって1年後の24年の1月、ハイル労働相はその市民金の額をさらに12%も値上げした。これには、流石のドイツ人も怒った。
ドイツは税金、および社会保障関係費が高く、OECDの調べでは、現在、ドイツよりも負担の多い国はベルギー1国しかない。中でも一番過酷な税負担を被っているのが、毎日、真面目に働き、ドイツ経済を支えている、いわば中間層の人たちだ。
現行のドイツの税制では、中間層の人たちは、たとえ収入が上がっても、累進課税の弊害でほとんど増収につながらないどころか、時には財布に残る額が減るという現象さえ起こる。だから、彼らの目には、何もしない人たちに12%の“賃上げ”を与えたハイル氏の行動は、あたかも勤労者をバカにしているように見えたのは無理もなかった。
一方、市民金の値上げは、低賃金層の人々にとっても、労働意欲を削ぐのに実に効果的だった。連邦統計庁の資料によれば、現在、市民金を受領している人の72%は、労働が可能な人だという。こうなると、市民金は労働市場にとって間違いなく有害である。
さらに納税者を憤慨させたのは、ウクライナからの避難民が市民金を受けているという事実だ。ウクライナ人はその他の国からの難民とは違って、難民申請をする必要はなく、ドイツに入国すれば自動的に、暫定的な準市民権を貰える。つまり、市民金を受ける権利がある。
その結果、現在、ドイツに避難している120万人のウクライナ人のうち、働いているのは4人に1人。後の3人は働かずに市民金を受領し、その家賃も公金から支払われている。ちなみに、他の国に避難したウクライナ人の就業率は、ドイツとは比較にならないほど大きいという。戦争勃発後、ウクライナを後にした400万人の避難民のうち、120万人がドイツにいる理由は、誰にでもわかるだろう。
しかも現在、その120万人のウクライナ人のうちの20万人が、労働可能どころか、戦闘可能な男子だという。ただ、現政権はそれを問題視する気も、修正する気も全くなく、ウクライナへの全面支援、武器供与を今も熱心に説き続けている。ウクライナに武器を供与し、ウクライナ兵の脱走に目を瞑っているというのは、あまりにも矛盾している。
いずれにせよ、世界の難民にとってはドイツが一番好ましい目的地であることは、2015年、メルケル前首相が中東難民に国境を開いて以来、ほぼ常識のようになってしまった。ドイツ人とは、それほど無私の精神に長けた国民であるのか、それとも間が抜けているのか?
そんなことを思っていたら、8月12日、ドイツ自民党が反旗を翻し、市民金の減額を訴え始めた。ただ、自民党は与党であるから、これでは政府内の混乱は広がるばかりだ。ドイツで機能していないのは経済だけでなく、今や政治も同様である。
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