「脱炭素と気候変動」の理論と限界③:仮定法は社会科学に有効か
検証抜きの「仮定法」
ベストセラーになった斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(以下、斎藤本)の特徴の一つに、随所に「仮定法」を連発する手法が指摘できる。私はこれを「勝手なイフ論」と命名した。
この場合、科学的な「仮説」と「勝手なイフ論」との相違は以下のような基準による。すなわち、前者は「仮説の帰結として予見された事実」(ポアンカレ、1914=1939:304)を確認するための観測、実験、調査などで確証する作業を必然的に含むが、後者はそのような観測、実験、調査などでの確証過程を省略する。
要するに「検証というテスト」(ポアンカレ、1906=2021:264)の有無により、「仮説」と「勝手なイフ論」とは違うものとする。
(前回:「脱炭素と気候変動」の理論と限界②:斎藤本のロジックとマジック)
斎藤本では簡単に数えても「勝手なイフ論」が10か所で認められるから、やや煩雑ながら順次紹介していこう。なぜなら、この「イフ」というマジックにより、斎藤のロジックが構築されているからである。なお、以下の引用文での太字は私が付けた。
仮定法の事例
①:「先進国が支援して、効率性の高い新技術を導入することができれば、旧技術のままインフラ整備や大型消費が行われた場合と比較して、二酸化炭素排出量はなだらかなカーブを描いて上昇していく」(斎藤本:65)。
それはそうだが、しかし問題は「効率性の高い新技術」の創造にあり、それが皆無の論述ではメッセージ力に乏しい。
②:「将来的にイノベーションが進めば、再生可能エネルギーが廉価になり、石油の使用が採算に合わなくなる」(同上:79)。
もちろんそうだろうが、現在の「再エネ」価格については25年の耐久年度を超えた後の「後始末」(長谷川、2021)費用が計上されないまま、火発や原発の費用と比較されて「安い」と断言され、その将来が語られすぎである(金子、2021:国際環境経済研究所、金子WEB連載その5)。重要なことは、いかなるイノベーションがどう進むかにある。
③:「できるだけ多くの人々が入るグローバルな経済システムを設計できれば、持続可能で公正な社会を実現することができる」(同上:104)。
この引用のすぐ後に、ラワース本が紹介されるが、ラワースもまた「ドーナツ経済」を図示しただけで、「設計」には至っていない。この理由は連載第5回目で詳述する。
④:「経済成長しなくても、既存のリソースをうまく分配さえできれば、社会は今以上に繁栄できる可能性がある」(同上:108)。
これもまた、ラワースの「成長しようがしまいが関係なく、人類が繁栄できる経済を築くこと」(ラワース本:351)と同じである。「繁栄経済の枠組み」は大事だが、図示しただけでは不十分であり、それを支える具体的な社会指標が20程度では「設計」にもなりえない。
国民総幸福量(GNH)と人間開発指標(HDI)では評価が異なる
⑤:先進国と「同じ資源とエネルギーをグローバル・サウスで使えば、そこで生活する人々の幸福度は大幅に増大する」(斎藤本:110)。
これが全く不可能であったことは2021年11月のCOP26で証明された通りである。それでも「ブエン・ビビール」が希求され、ブータンの「国民総幸福量」(GNH)にも斎藤は好意的な評価を下している。
ただし、たとえば国連の「人間開発指標」(HDI)では不可欠の「識字率」指標を見ると、キューバ、日本、アメリカの99%とは異なり、ブータンは52.8%に止まり、世界のランキングでは202位になっている(濱田・金子、前掲論文:12)。これをどう解釈するか。
なお、ラワース本でも、GDPへの対抗指標として、国連による「人間開発指数」、「地球幸福度指数」、「包括的な豊かさ指数」、「社会進歩指数」などが羅列的に紹介されている(ラワース本:398)。
羅列的という理由は、上述したブータンのように、「幸福度指数」が高くても、識字率に象徴される「人間開発指数」が低いことが起きているという現状をそのままで示したからである。これはもちろん指標の宿命であり、したがって論者の問題意識で指標は変わるから、GDPを敵視するだけでは何も解決しない。
⑥:「資源の制約も地球環境の限界も、新技術さえあれば気にしなくて良い」(同上:219)。
もちろん同意するが、ここでも問題は「新技術」をどこでいかにして創造するかにある。EV化一つとっても、激烈な競争が自動車生産企業と国を巻き込んで始まっている注15)。
自動徴収される「再エネ賦課金」
⑦:「エネルギーが地産地消になっていけば、電気代として支払われるお金は地元に落ちる」(斎藤本:261)。
この直前には「再エネ」の普及が論じられているから、このエネルギーとしては「再エネ」が想定されていることは間違いない。しかし、たとえば「再エネ賦課金」の扱いはどうなのか。全世帯ですでに月額1000円程度になっているこの強制徴収金は、自宅屋根に太陽光発電パネルを置ける家だけに還元される仕組みが続いている。これは不公平ではないかという意見もまた根強くある。
⑧:「自己抑制を自発的に選択すれば、それは資本主義に抗う『革命的』な行為になる」(同上:276)。
ここでいわれる「自己抑制」は「無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置く」ことなのだが、「万人の繁栄」とはGNとGSのどのレベルの繁栄をさしているのか。資本主義への「離陸」さえいまだ程遠いようなGS諸国では、繁栄は「経済成長」と無縁なままで持続可能なのか。
想像力とは無縁の仮定法の乱発
⑨:「もし、デトロイトの食料がすべて地産地消になったら」、「もしコペンハーゲン市内で自家用車の走行が禁止されたら」。この具体的な「もし」(what if…)が既存の秩序を受け入れてしまう想像力の貧困を克服し、資本の支配に亀裂をいれる」(斎藤本:295)。
しかし、ベストセラー版元の集英社も資本主義枠内の出版社であり、「もし落書きを出版したら」はありえないはずである。むしろ、「もし」という仮定法の乱発こそが「想像力の貧困」を示しているのではないか。
⑩:市民なり国民の3.5%が学校ストライキや組合運動や署名運動などをするという「動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない」(斎藤本:364)。
最後まで仮定法を使う「専門書」は確かに珍しいが、それならば公立大学に勤務するあなたは何をするのかという問いが、自動的にブーメランとして戻ってくる。
以上、仮定法「イフ」の乱発だけでは、「脱成長コミュニズム」の理論と実践は全く見えてこないことを示した。
「地球」と「コモン」を使ったマジック
もう一つ重要な斎藤マジックは、次の訳文に象徴される。
ドイツ語版『資本論』第1巻の第24章第7節末尾にある「最後の鐘」に続くマルクスの文章であり、具体的には「この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだす」(太字金子、斎藤本:143)と訳された部分である注16)。
この翻訳面での意図的な変更として、従来の定訳「土地」が「地球」に、「共同占有」が「コモンとして占有すること」に変えられたことが指摘される。
私は、この改訳こそが、マルクスはエコロジストであり、『資本論』が今日の気候変動までも扱えるとした斎藤マジックの秘密であると指摘したことがある(濱田・金子、前掲論文:148-149)。
原書との照合
念のために仏語版と独語版の原書を北海道大学中央図書館から借りだしてチェックすると、日本で刊行されてきた翻訳書の定訳では ‘la coopération’ や ‘der Kooperation’ は「協業」、フランス語の ‘le sol’ は「土地」、 ‘la possession commune’ が「共同占有」であった。また、ドイツ語 ‘des Gemeinbesitzes der Erde’ が、「土地の共同占有」と翻訳されてきた。
第1巻の末尾まで、マルクスは土地や労働による生産を通しての「資本の蓄積」と「本源的蓄積過程」を詳しく論じて、第3巻第6篇では「地代論」を展開しているのだから、ここでの ‘le sol’ や ‘der Erde’ は斎藤訳の「地球」ではなく「土地」のほうが文脈に合っている。
また、 ‘la possession commune’ も ‘des Gemeinbesitzes’ も「コモンとして占有」ではなく、「共同占有」が無難であろう。社会科学の文献研究であれば、自説補強のための独自の翻訳は当然だとしても、数十年間流布してきた先行研究成果との比較の責務があるのではないだろうか注17)。
コモンの拡張だけでは「資本主義の超克」にはならない
そして結論としては脱資本主義論の文脈で、「<コモン>は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。そして、最終的には、この<コモン>の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指す」(斎藤本:142)とされた。
しかし、事例とされた自治体の<コモン>は地産地消の類であり、原材料の入手、製造機械の購入維持管理、商品流通、資金調達などはすべてグローバル資本主義の枠内にあるため、「資本主義の超克」の論理にはなり得ていないと考えられる注18)。
(次回:「脱炭素と気候変動」の理論と限界④に続く)
■
注15) EV化については国際環境経済研究所WEB連載(その3)で触れている。
注16) フランス語版『資本論』では、第8篇第32章の末尾になる。
注17) なお、より詳しい『資本論』原典との照合については金子(2022)を参照してほしい。
注18) 「資本主義の超克」はソ連解体後のどの国でも行っていない「革命的変革」である。しかし、「革命的変革は、少なくとも、われわれの観念(思想)を変えること、われわれが心に抱いている信念や偏見を捨て去ること、さまざまな日常の快適さや権利を断念して何らかの新しい日常体制に自己を従わせること、われわれの社会的・政治的役割を変えること、われわれの権利、義務、責任を割り当てなおすこと、われわれの行動様式を変更して集団的ニーズと共同の意志によりよく適合させること、こうしたことなしには不可能である」(ハーヴェイ、2011=2012:309)。このハーヴェイの包括的な指摘を繰り返しかみしめておきたい。
【参照文献】
- Harvey,D.,2011,The Enigma of Capital and The Crises of Capitalism, Profile Books.(=2012 森田成也ほか訳『資本の<謎>』作品社.
- 長谷川公一,2021,『環境社会学入門』筑摩書房.
- 金子勇,2021-2022,「二酸化炭素地球温暖化と脱炭素社会の機能分析」(第1回-第7回)国際環境経済研究所WEB連載.
- 金子勇,2022,「自然再生エネルギーの『使用価値』と『交換価値』」神戸学院大学現代社会学部編『現代社会研究』第8号:近刊予定.
- Marx,K,(traduction de Roy)(1872-1875)Le Capital,Maurice Lachatre et Cie ,Paris.(=1979 江夏美千穂・上杉聴彦訳『フランス語版資本論』(上下)法政大学出版局).
- Marx,K,1867=1973,Das Kapital,(=1980 鈴木鴻一郎責任編集『マルクス エンゲルスⅠ Ⅱ 世界の名著54 55』中央公論社).
- Poincaré,H.,1906,La science et l’hypothèse.(=2021 伊藤邦武訳『科学と仮説』岩波書店)
- Poincaré,H.,1914,Dernières pensées.(=1939 河野伊三郎訳 『晩年の思想』岩波書店).
【関連記事】
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界①:総説
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界②:斎藤本のロジックとマジック
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界③:仮定法は社会科学に有効か
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界④:ラワース著「ドーナツ経済」の構想と限界
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界⑤:法則科学か設計科学か
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界⑥:「ドーナツ21世紀コンパス」の内実
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界⑦:WEIRDを超えた5つの人間像
・「脱炭素と気候変動」の理論と限界(最終回):成長と無縁の繁栄はありえない
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