「権威主義」との闘い:ノーベル賞の政治化が科学を殺す

2021年10月18日 07:00
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元静岡大学工学部化学バイオ工学科

元静岡大学工学部化学バイオ工学科 松田 智

日本では「ノーベル賞」は、格別に尊い存在と見なされている。毎年、ノーベル賞発表時期になるとマスコミは予想段階から大騒ぎで、日本人が受賞ともなると、さらに大変なお祭り騒ぎになる。日本人は一般に「権威」に弱い。

実は、筆者が危惧するのは、このノーベル賞の「権威」が悪用されないかどうか、の点である。多くの市民にとって、科学は元々難しくて縁遠い存在だが、その最高権威ノーベル賞ともなると、ただひれ伏して拝むだけの「神様」に近づく。研究内容はむろん理解などできないから、マスコミ解説をただ有難く拝聴するのみとなる。この種の「権威づけ」が、怖い働きをする。

vanbeets/iStock

例えば、今回の物理学賞を真鍋博士が受賞したことで「人為的CO2による地球温暖化説」が間違いの無い学説だと証明されたかのように思い込む人がいるだろう。しかしそれは、単純に事実誤認である。真鍋博士がその分野のパイオニアの一人だったのは事実だが、コンピュータ・シミュレーションでCO2による温暖化が証明されたことはない。

以前にも示したが、実際問題、人工衛星で測った地球気温の変化は、IPCCの第6次評価報告書に載っている図とは大きく異なり、細かく揺れ動きながら周期的に変動し、長期的には微増傾向を示す。一方、大気中CO2濃度変化は、長年ほぼ一定速度で増加しており、周期的変動などは観察されないから、両者の相関性は低い。気象庁データでも、地球気温の上昇速度は100年当たり0.7℃台で、IPCC予測の同3〜5℃(これこそ、コンピュータ・シミュレーションの結果)と大きく異なっている。事実がすべてである。

一方で、「温暖化懐疑論者はノーベル賞級のモデルを示し反論を」との記事もある。ここにも「ノーベル賞級の」との形容詞がついていることから、この賞が権威づけに使われていることが歴然としている。

しかし、それにしても、CO2による温暖化への疑問を示すのに、なぜ「壮大なモデル」が要るのか、筆者には分からない。この説が正しいかどうかを見るには、地球気温と大気中CO2濃度の信頼できるデータがあれば足りる。高性能コンピューターを何万ドルも使って動かせる研究者は、そんなにいないわけだし、壮大なモデルがないなら反論するなとは、ずいぶん乱暴な話ではないだろうか? これもノーベル賞と言う権威=虎の威を借るナントやらでは・・・?

もう一つの危惧は、温暖化「懐疑論者」は何か悪者であるかのように書かれていることだ。以前、東大から「地球温暖化懐疑論批判」という書籍が刊行されたが、筆者は当初から変な書名だと思っていた。

なぜ「疑うこと」が批判されるのだろうか? 疑うのは、いけないことなのか? 科学は、本来疑うことから始まるのに。疑うことを拒否し、ただ信じることを求めるのは「宗教」ではないのか? 本物の科学は、そんな偏狭なものではない。自分の主張と異なる「異説」にも耳を傾け、誤りの可能性をとことん追究する姿勢を失わないものだ(→反証可能性)。

異説という意味では、デンマークの宇宙物理学者スペンスマルクの学説は、非常に興味深いものである。簡単に言えば、宇宙から飛んでくる銀河宇宙線の量で雲の生成量が変わり、それが地球気温に影響する、銀河宇宙線の量は太陽活動の活発さで変わる、だから、地球気温は太陽活動の影響を強く受ける、と言う説である。

銀河宇宙線の量は、大気に生成するC14(炭素の放射性同位体)で分かり、木材の年輪に含まれるC14量と年輪の幅(気温と比例関係)に相関関係があると分かって、物的証拠も得られた(名古屋大学の研究その他)。正にこれは、太陽〜地球を結ぶ壮大なモデルではないだろうか?しかし、IPCCはこの学説を非科学と一蹴し、相手にもしていない。筆者の推察では、CO2温暖化仮説を根本的に否定する学説だからだろう。

さらに、先の論説で感じられるもう一つの危惧は、素人は引っこんどれ、専門家に任せなさい、と言わんばかりの居丈高な態度である(そうでないことを願うが)。しかし、実はここに、一般市民が最先端科学・技術とどうつき合うか? を考えるヒントが隠されていると筆者は思う。

確かに、最先端の科学・技術を正確に理解するには高度な知識が要るし、関連情報は日々更新されるから、不断の勉強が欠かせない。一般市民にそれを強要するのは無理である。

しかし一方、例えば環境・エネルギー政策などは、我々の税金で立案・実行されるし、それを決めるのは主に議会(政治家)であるが、政治家が皆、科学・技術に精通しているとは限らない。どちらかと言えばその分野にド素人の彼らが、下手をすると、科学・技術的には誤った選択をしないとも限らない。

とすれば、納税者である一般市民は、たとえ大変でも、最先端の科学・技術にある程度の基礎的理解を持って、これを監視しなければならないことになる。その際、マスコミ報道や「権威」の言うことを鵜呑みするのは危険だが、ネット情報が常に正しいとも限らない。結局は「見る目」を如何に養うか? の問題になる。

そこで、一般市民と専門家集団を繋ぐ「橋渡し」役の存在が必要になる。ある程度の科学・技術上の素養を持ち、専門家集団やマスコミ等の利害と直接には関わらずに情報を整理し、一般市民に分かりやすく提供する個人・組織である。そのような個人・組織(NPOなど)が活発に活動することで、風通しの良い社会が作れるのでは? と期待する。

筆者も、微力ながらそのお役に立ちたいと思う。一応博士号は持ち、長年大学で教育・研究に従事し、今は何の組織にも属さず拘束されず、誰とも利害関係がない。ちょうど良い立場にあると自覚している。

筆者は気象専門家ではなく、コンピュータ・シミュレーションの専門家でもないが、地球温暖化問題や脱炭素政策などに意見を述べる。別に、専門家としての意見ではない。それは、これまでに培った科学的論理的思考を現実の問題に適用し、いくらかでもマシな政策提言に結びつけられたら、との思いによる。むろん、得手不得手はあり、筆者がいくらか得手なのは、専門の化学環境工学周辺の、化学・環境・エネルギー・応用微生物関連の話題である。

気候変動に物申したら、動画削除の危険性?」などと言った、物騒な話題が出るようになった世の中である。今後COP26に向けて、恐怖心を煽る記事や番組が続出するだろう。早くも「気候変動は順応するか死ぬかの問題」と英環境庁が警告との記事が出た。TV画面には、南極の氷河が崩れ落ちる場面とか山火事風景、氷が溶けてシロクマが危ない等々、実際には大気中CO2とは無関係な話題が、温暖化関連として実にしばしば出てくる。筆者はこれを、一種のマインドコントロールではないかと捉えている。一種の集団催眠である。

中世ヨーロッパでは「魔女伝説」が盲目的に信じられて社会全体が一種の集団催眠に陥り、多くの女性が何の罪も根拠もなく火あぶりに処せられた。後で考えると、なぜそんなバカな?と思うような所業である。中世と現代で、どこが違うだろうか・・・? 集団催眠に陥らず、醒めた目で世の中を眺めるには、やはり、ある程度の基礎知識と自分の頭で考える思考力が要る点は同じであるが。

科学とのつき合い方については、この8月にも2回ほど書かせていただいているので、基本的なことは繰り返さない(下記関連記事を参照ください)。

例えて言うなら、王様が裸なのか豪華な衣服を身にまとっているのかを見るには、高い望遠鏡や眼鏡は必要でない。曇りのない裸の目で、しっかり見ることである。

【関連記事】
「科学」とどうつき合うか?
「科学」の危機

松田 智
2020年3月まで静岡大学工学部勤務、同月定年退官。専門は化学環境工学。主な研究分野は、応用微生物工学(生ゴミ処理など)、バイオマスなど再生可能エネルギー利用関連。

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