「福島の甲状腺がん50倍」論文に専門家が騒がないわけ(上)

2015年11月09日 12:00
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相馬中央病院 内科診療科長

先日、ある学会誌に「福島の子供たちの間で、甲状腺がんが他の地域の20-50倍上がっている」という論文が受理されたようです。(注1)最近になり、この論文が今でも世間で物議をかもしているという事を聞き、とても驚きました。なぜならこの論文は、多少なりとも甲状腺やスクリーニングの知識のある研究者の間ではほとんど問題にされないものだったからです。

しかし、このような研究者の態度がジャーナリストの反応とあまりにかい離しているために、むしろ

「福島の研究者が不当に真実を隠している」という誤解も生んでいるようです。

なぜこのようなかい離が生まれたのでしょうか?

ひとつの理由は、統計や疫学、甲状腺がんやスクリーニングに関する知識の違いの差があります。もうひとつは、研究の妥当性と政府に対する批判の妥当性が混在してしまっていることがあるように思います。

ここではまず論文の限界について述べた後、この論文が報道される背景について少し意見を述べさせていただこうと思います。

科学論文の限界

そもそも統計学だけで因果関係を示すことはできない。そのことは別稿にお書きしていますのでお読みいただければと思います。(注2)

その上で、まずこの論文は、主に3つの点で克服できない問題を抱えています。1つは、放射性ヨードの被ばく量推定が難しいこと。2つめは、放射線の推定被ばく量類推値と甲状腺がんの発症率との間に相関がみられていないこと。3つめは、福島と比較するためのコントロール群が適切でないことです。

もちろん限られたリソースの中で最善の結果を得ようとされた研究者の努力は買われるべきでしょう。しかし、この論文をそのまま紹介して、報道関係者が
「福島でがんが何十倍も増えている」
と安易に報道し、住民の方々をいたずらに傷つけることだけは控えるべきだと思います。

被ばく量推定の難しさ

福島県で起きている甲状腺がんが原発由来の放射性物質によるものだとするのであれば、すくなくとも被ばく量とがんの発生率の間に関係(相関)がある必要があります。つまり、推定被ばく量の高い人や地域ほど、がんの発症率が高くなるという事を示す必要があるのです。

しかし、甲状腺がんの原因である放射性ヨードは半減期も短く、被ばく量の個人差も大きいため、個人の被ばく量を推定すること自体が非常に困難です。(このことは別稿に書かせていただいております)(注3)。つまり事故当時の放射性ヨード被ばく量は推定に頼るしかありません。

そこでこの論文では、行政区ごとに、「原発近接地域 (nearest area))「中間の地域 (middle area)・北部と郡山)「中間の地域 (middle area)・中部と南部」「推定線量の最も低い地域(least contaminated area)」とを分けています。

しかし論文内の地図を見てみると、南相馬市は「近接地域」ですが、そのすぐ北に接する相馬市は「最も線量が低い地域」です。また、大熊町は「近接地域」、そのすぐ南に接するいわき市は「最も線量が低い地域」とされています。また、近接地域の子供たちの方が県外に避難していた確率が高い可能性もあり、この行政区でスクリーニングを受けた子供がこの地域に相当する被ばくをしたとも限りません。つまりこれだけをみても、適切な被ばく量の推定モデルを作ることのむずかしさが分かると思います。

95%信頼区間の解釈のむずかしさ

次に、この論文では南部の「最も線量が低い地域」を1としたとき、他の市の発がん率が何倍上がっているのか、という計算をしており、その値は「近接地域」で1.5倍(95%信頼区間0.63-4.0)、「中間地域」で1.7倍(95%信頼区間0.81-4.1)です。

ここで気をつけなくてはいけないことは、このデータの「95%信頼区間」です。これは、同じような集団を100回検査した時に、95回はこの区間に入りますよ、という値です。もう少し分かりやすく言えば、計算上1.5倍という数値が出ているものの、この数値は0.63倍から4.0倍の間のどの数字であってもおかしくないですよ、という結果です。たとえば同じような集団にもう一回検査をした場合、0.8倍という結果が得られることもあり得るのです。

0.8倍は減っていること、4倍は増えていることを示しますから、95%信頼区間が1をはさんでいた場合には、「増えているとも減っているともいえない」と解釈するのが普通です。

ですからこの数値を見て、「やっぱり増えているじゃないか」と断定するのが間違いであるのと同じように、「やっぱり増えていないじゃないか」と解釈することもまた、間違いだということには注意してください。

このように説明した時に、この信頼区間が1をまたいでいても、2つのグループで繰り返し出たら1.5倍である確率は上がるのではないか?というご質問を受けました。これは必ずしもそうではありません。単純な足し算や確率の掛け算ではなく、2つのグループのデータを合わせて、改めて計算しなおす(メタ解析といいます)必要があります。

この論文の中で一番人目に触れる要旨(abstract)の部分では、甲状腺がんが最も多く見つかった福島市近辺(中間区域)の数値だけが取り上げられています。この値は2.6倍(95%信頼区間0.99-7.0)。この値も同様です。

さらに、「線量の最も低い地域」だけでみても、いわき市ではコントロールの1.9倍(95%信頼区間0.84-4.8)ですが、相馬市では0倍(症例が0だから)です。被ばく量ではなく地域差だけでこれだけの差が出てしまう、ということも、注意して読まなくてはいけないポイントです。

有意差がでない時:「結果」と「解釈」の違い

もちろん、データの解釈は、研究者自身の意見に多少左右されます。がんが増えた、と考えたい方は「データがもう少しあれば示せたかもしれないな」と思うでしょうし、増えたと考えたくない方は、「これは偶然増えたようにみえただけだな」と思うのです。

つまり、「解釈(考察)」の部分で、どちらの論調で書いても間違いではない。しかし、医学や公衆衛生の研究者がこの要旨を読んだ時に「2.6倍増えているという『結果』だ」と断定することはありません。

一方、統計の数値に慣れていない人であれば、2.6という数字を見た瞬間にこれは増えている、という結論を出してしまうかもしれません。研究者の考察と非・研究者の結論がしばしば混同してしまう原因です。

くりかえしますが、限りあるデータから計算されたこの数値に「意味がない」と否定することは間違っています。しかしこの数値だけをもって
「福島市では原発の影響によって甲状腺がんが2.6倍に増えている」
と断定的な報道をすれば、それは科学的にも、倫理的にも過ちと言ってもよいでしょう。

「20-50倍」:他の地域との比較の難しさ

最後に、一番ニュース性のある「20-50倍」のくだりです。この計算をする上で、研究者が「福島の甲状腺がんを何と比較するのか」という点にとても苦労された様子がうかがわれます。なぜなら、自覚症状があって病院を受診される方のがんのデータと、スクリーニングのデータを比較することは本来できないからです。

スクリーニングと普通のがんの罹患率は比べられない

スクリーニングは、症状が出て病院へ行くようになるよりもずっと前にがんを発見します。たとえば今福島の甲状腺がんのスクリーニングでは5㎜大の結節を発見できます。しかしこれまでに日本で出ている発症率は、患者さんが「なんか出っ張っている」「飲みこみにくい」「押されて痛い」などの症状で病院へきて、検査の結果がんと分かった人のデータです。部位にもよりますがその10倍の大きさの5㎝くらいでも気づかなかったなどという人もいます。

この論文でもそのことは考慮されており、甲状腺がんの潜伏期間を4年、つまり、スクリーニングで発見できるくらいのがんが育って自覚症状が出るまでにおよそ4年かかるだろう、と推定しています。

しかし実際には、
「スクリーニングで見つかるような小さな甲状腺がんがあった場合、自分で気づくまでには何年かかるのか」
ということは、誰も知りません。そこに、疫学のむずかしさがあるのです。

がんの潜伏期間「4年」の推定は妥当か

実をいえば、微小甲状腺がんが4年で自覚症状が出る、という解釈は、甲状腺がんの専門家の間では疑問視されています。

たとえば甲状腺がん以外の理由で亡くなった方の解剖をしてみると、ざっと見ただけで7%、詳しく検査すれば22%に甲状腺がんが見つかった、というデータもあります。(注4)日本で一番甲状腺がんの罹患率の高い年代は65歳ですが、それでもがんの発症率は10万人あたり30名前後です(注5)。たとえむこう10年分の発症率を足したとしても、7%にもはるか及びません。そう考えれば、潜伏期間は10年間でもまだ短い印象があり、この「潜伏期間4年間」という推定値は短すぎる可能性が高いのです。

(注1)Thyroid Cancer Detection by Ultrasound Among Residents Ages 18 Years and Younger in Fukushima, Japan: 2011 to 2014.
(注2)「福島の議論はなぜ決着がつかないのか:科学の限界と科学者の責任」(越智小枝)
(注3)「甲状腺癌の難しさ」(越智小枝)
(注4)Martinez-Tello, FJ, et al.Cancer. 1993 Jun 15;71(12):4022-9.
(注5)日本の甲状腺がんの罹患率(全国推計値)(国立がん研究センター)

以下(下)に続く。

越智小枝(おち・さえ)1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。3.11をきっかけに災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ留学先で研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。

(2015年11月9日掲載)

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