真の原子力再生に必要なことは何か?(下)原子力再生に向けて
(GEPR編集部・石井)上に続き、国際環境経済研究所IEEIの論考を掲載。私(石井)はここで展開された考えについて、問題発生の原因を、東京電力、原子力関係者の内在的な問題ではなく、電力自由化、規制強化という外的要因に求めることに、違和感がある。また原子力の安全をめぐるかつての姿を「栄光の日々」などと、言えるものであろうか。他の意見を入れない、ゆがんだエリート意識、閉鎖的な組織、そして検証のない組織などが、事故をもたらした一因と、さまざまな調査で指摘されている。ただし、この文の指摘の部分もあったであろう。複合要因の中で、原発事故が起こったことを認識するために掲載する。
(以下本文)
前回ご紹介した失敗メカニズムの本質的構造から類推すると、米国の学者などが1990年代に行った「日本における原子力発電のマネジメント・カルチャーに関する調査」の時代にはそれこそ世界の優等生であった東電原子力部門における組織的学習がおかしくなったとすれば、それは東電と社会・規制当局との基本的な関係が大きく変わったのがきっかけであろうと、専門家は思うかもしれない。
この疑問こそ、各種の事故調査が、そしてそもそも東電自体がしっかりと深掘りして検証すべき核心的問題であろう。だが、原子力、そして東電の動向について実務者の立場で内側から逐一眺めてきた者としては、限られた範囲で到底全体像には及ばないかもしれないがこの仮説に対してそれなりの裏付けを与えることができると思う。
あるいは無謀な試みかもしれないが、真の原子力再生に向けて議論が正しい方向に向くように一石を投じる意味で、以下に筆者なりの見解をご紹介することとしたい。
「普通の会社化」のもたらした問題
そもそも東電と社会・規制当局との基本的な関係が変質する契機はあっただろうか?確かにあった。そしてその頃から東電の社風がおかしくなってきたことも紛う方なく実感されてきたのである。2000年頃に起きたいわゆるグローバル化を背景とした電力自由化および規制緩和の動向を背景として、電力の社会に対するスタンスは大きくシフトした。いわゆる『兜町を向いた経営』『普通の会社化』である。
これによってコストダウンがまさに至上命題とされ、それまで東電の組織的学習を支えてきた基盤は大打撃を受けた。ムダの排除を合い言葉に社員のモチベーションを保ってきた処遇制度も大きく変わり、組織的学習の要であった管理職がプレイイングマネジャーとして管理業務の過負荷に喘ぐこととなった。その結果、会社全体が書類を右から左に流すことに忙殺されて部下を育てたり人間的な信頼関係を築いたりする健全な余裕が失われ組織的学習が萎縮してしまったように思われる。
規制当局との関係性も激変した。原子力に対する規制が事後規制に大きくシフトしたことを契機として、事業者のいわゆる『自己責任論』があらゆる場面で一人歩きし始めた。事業者としてもあれこれうるさいことを言われないようになるなら好都合と考えていたのかもしれないが、その結果は両者の関係性と対称性の破壊であった。
端的な例としては、それまで国策としてともに推進してきた核燃サイクル政策について、中央のレベルで一部官僚が怪文書を作成して揺さぶりをかけるようにまでなってしまった。官僚が国の政策を自由に論じることは国の健全性を保つうえで重要なことかもしれないが、数十年来一貫したポリシーの下に進めてきた国家的事業はその一貫性を信じて運命を左右する決断をしてきた多数の国民がいることを意味している。
正々堂々と透明性のある議論をするならともかく、怪文書のようなものをばらまくのは立派な妨害行為だ。『規制の虜』などとは絶大な権限を握る立場ではあまりに身勝手な言い分であり、当局と事業者の関係がぎくしゃくし始めた証拠と見るべきだろう。
実務レベルでは、事後規制のために人手が必要という理屈で、新たに検査官に採用される人が増えたが、それまで以上に重箱の隅をつつき壊すような振る舞いが多くなったことは、現場でよく事情を聞いて頂ければ分かる事実である。
規制緩和と言うなら自分の面倒は自分で見ればよいだろうと、自治体への説明責任は『一義的に』事業者だという役人が散見されるようになったのは、それまでの責任感ある人々を知る者にとっては衝撃であった。地方の閉塞感を背景に、原子力に批判的なスタンスを売り物にする首長も増えたため、結果的に事業者は霞ヶ関と県庁や役場の板挟みになって振り回されるようになり、事業者とこれらのステークホルダーとの関係性や対称性(「関係性」や「対称性」については、(上)の最後の図参照)は急速に悪化したのだ。
一方的関係性の恐ろしさ
この関係性や対称性の悪化を決定的にしたのが、2002年に明るみに出た東京電力による一連の原子力不祥事である。この時は内部告発に対する初期対応が規制当局を含め不適切だったのだが、結果的に当事者である東京電力が猛烈な批判に晒される一方、規制当局は、事業者に厳しく対峙して懲らしめる“正義の味方”だというイメージを国民に植え付けるようになっていった。その結果起きたのは、厳しく締め付ければ締め付けるほど安全だという規制強化一辺倒の礼賛である。
こうしたやり方が日本的ソクラテスメソッドの真逆を行くものであることや、組織的学習の四元素をいかに損なうものであるかについては多言を費やさずともご納得いただけるのではないだろうか。ここに日本の原子力の混迷が始まり、それが東電の事故に波及していると考えるのは決してこじつけではあるまい。
こうした対称性の破壊は、規制当局と事業者の間だけではなく、事業者とメーカーの間や、事業者の中でも親会社と関係会社の間、発注元と協力企業の間でも起きている。これらの企業同士の関係では、電力自由化要求に伴うコストダウン圧力と原子力産業の停滞が悪影響を及ぼしている。どの組織も、取引上の有利な立場を利用して、自分たちが吸収しきれない無理を下流側にしわ寄せするのはある意味自然な振る舞いであることと、原子力業界では競争的なマーケット構造が存在せず、サプライヤーにとって他の売り先を探すという選択肢がないため、発注者による無理な要求でも無下に断りにくいことがこうした傾向を促進しているのだ。
このように、日本の原子力界の状況は、皮肉なことに規制緩和を契機とした規制強化と電力自由化によるコストダウン圧力がもつれ合ったことによって、対称性の破壊と関係性の劣化が業界内部にカスケード的に波及して、自発性や感受性を含めた四元素全体の劣化に向けて相互強化反応を引き起こし、業界全体の各レベルで組織的学習が著しく劣化してしまう結果をもたらしたと考えられる。
真の改革に必要なことは?
以上のような日本の原子力界についての現状認識を踏まえた診断と処方は以下のとおりである。この検討は、3・11事故以前に筆者を含む有志の勉強会で議論されていたものであるが、その大半はいまだにあてはまると思われるのでここにそのままご紹介する。
ⅰ)診断
現行システムの病根は、〈計画経済的な産業の枠組み〉〈階層的な権力構造〉〈人材流動性の低さ〉に起因する〈一方的な歪んだ関係性〉が、原子力業界における客観性と説明責任の不足と重なり合った結果もたらした〈タコ壺構造〉である。これらの要因が繰り返し相互作用するとともに、組織の拡大基調が止まることを契機に病理症状は悪化し、組織的学習プロセスが機能不全に陥って、不祥事・トラブルの再発や続発、サイクルの停滞、稼働率の低迷という結果が発生しているものと診断される。病状はかなり進行しており、現行システムは求心力や活力を回復不能に至る寸前まで喪失している。
ⅱ)処方箋
①〈タコ壺解消〉のため思い切った改革を行い、新しいシステムへの移行を図るべき。最も重要なのは規制当局から現場に至るまで、主要組織間に全体最適を図る合理性を共通項とした関係性〈つながり〉が形成され、維持されるように信頼関係を構築することだ。そのためにはセクター全体で産業の安定的・健全な発展と安全性確保が相互依存関係にあり常に両者への目配りが必要なことや、最終的な顧客は日本国民であるが産業に携わる一人ひとりへの適切な目配りを通じて初めて目的を達成しうること、例えばお金をかけて設備や人を増やせば増やすほど安全性が高まるというような合理性のない規制は原子力安全をむしろ損なうことなどを明文化して共有したうえで、当局を含めた原子力界全体を対象に独立・客観的な評価を行う専門の監査組織によりモニタリングする制度を作ることが望ましい。
②人材と知識の流動性を高めるための改革を行うべき。特に研究開発にあたっては国民を含めたユーザーの目線とニーズに基づいて方針を決定し、国の研究機関だけでなく、テーマに応じて事業者やメーカーもコンソーシアムとして資金・要員面で参加できる柔軟で自律的な体制とすべき。
③安全規制を初め、国全体として以下のとおりガバナンス体制の整理・合理化を進めるべきである。具体的には、原子力委員会の委員長を内閣の一員たる国務大臣にして国民の意思を機動的に反映できるようにするとともに、原子力安全・保安院の安全規制機能は原子力安全委員会と統合して経済産業省から分離し(*原子力規制庁として実施済み)、資源エネルギー庁は環境省と合体してエネルギー安全保障と環境問題の最適解を一元的に策定・推進する役割を担うエネルギー・環境省にするのが適当である。
④大艦巨砲主義のような巨大プラント一辺倒の計画を無理に進めるのではなく、より国民の身近に受け入れられやすく投資リスクの低い、普遍的な原子力システム・製品開発および技術開発への移行を志向するべきである。
最後に〜過ちを繰り返さぬには人の視点を第一に
最後に、日本の原子力界における問題の一番底には、問題の存在が分かっていてもそれを直視しようとせず、アカデミズムや規制当局など権威者から与えられた目的は個人がどんな犠牲を払っても実現させねばならないとする原理主義的な態度が垣間見えることを指摘したい。
これは、神風特攻隊のように究極において個人の尊厳と価値を軽視する東洋的思想のもたらすものかもしれないが、原子力長期計画をバイブルかコーランのような聖典と崇め、それらを疑うことがあってはならないという暗黙の縛りが優秀なはずの人々の思考を停止させ、本来最も重要な問題の数々から目を背けさせ、あり得ないようなリスク感覚の麻痺をもたらしている根本的なメンタリティである。ストイックと言えば聞こえはよいが要は働く人々への目配りや心配りの欠如だ。関係者はその危うさに早急に気付くべきである。
本論考で一貫して申しあげたかったことは、実は原子力をめぐる組織や産業のように極めて複雑なシステムの挙動を還元主義的に分析しコントロールしようとすることの限界と誤りである。そのような生命現象類似のシステムであればあるほど、栄光の日々における先人のように、あらゆる階層の問題を貫く基本軸を見極めて重点的にポイントを押さえて全体の学習能力を高め、緩やかに舵取りしていく発想こそが経営者や規制当局の責任者には必要だ。原子力の再生はこうした道の先にしか存在しないであろう。
その意味で、経営の自由度を狭め、ただでさえ疲弊した当事者に一層の管理強化を求めてやまない今の日本の原子力改革のありようはむしろ原子力の安全性をこれまで以上に損なっている可能性が高い。あまりにも重い十字架を背負わされた東電に本当に原子力の再生はできるのか?安全確保の大前提である組織的学習を再生することは平常時であっても難事業であろう。
組織存続のために差し迫った黒字化が必要という状況下で東電にそのような余力が残されているであろうか?大いに疑問である。少なくとも東電の原子力部門は厖大な損害賠償債務から切り離し健全な経営が可能な状況にするべきである。
そのためには国による事業買い取りと新会社への衣替えなど思い切った対策を考えるべきだ。再稼働論議をする以前に事業者はもとより、国などの関係者も含めて原子力界に身を置く組織や人々はこうした根本的な問題への考察と自省をもっと深めるべきである。
(2013年8月26日掲載)
関連記事
-
美しい山並み、勢い良く稲が伸びる水田、そしてこの地に産まれ育ち、故郷を愛してやまない人々との出会いを、この夏、福島の地を訪れ、実現できたことは大きな喜びです。東日本大震災後、何度も日本を訪れる機会がありましたが、そのほとんどが東京で、福島を訪れるのは、2011年9月の初訪問以来です。
-
言論アリーナ「民進党のエネルギー政策を問う~30年代脱原発は可能か~ 」を公開しました。 ほかの番組はこちらから。 民進党は「2030年代に脱原発」という政策を打ち出そうとしています。 それは本当にできるのか。 再生可能
-
先日、デンマークの政治学者ビョルン・ロンボルクが来日し、東京大学、経団連、キャノングローバル戦略研究所、日本エネルギー経済研究所、国際協力機構等においてプレゼンテーションを行った。 ロンボルクはシンクタンク「コペンハーゲ
-
はじめに 原子力にはミニトリレンマ[注1]と呼ばれている問題がある。お互いに相矛盾する3つの課題、すなわち、開発、事業、規制の3つのことである。これらはお互いに矛盾している。 軽水炉の様に開発済みの技術を使ってプラントを
-
米国ブレークスルー研究所の報告書「太陽帝国の罪(Sins of a solar empire)」に衝撃的な数字が出ている。カリフォルニアで設置される太陽光パネルは、石炭火力が発電の主力の中国で製造しているので、10年使わ
-
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、2030年までに世界の平均気温が産業革命前より1.5℃(現在より0.5℃)上昇すると予測する特別報告書を発表した。こういうデータを見て「世界の環境は悪化する一方だ」という悲観的
-
小泉純一郎元首相の支援を受けて、細川護煕元首相が都知事選に出馬する。公約の目玉は「原発ゼロ」。元首相コンビが選挙の台風の目になった。
-
福島第1原子力発電所の事故以降、メディアのみならず政府内でも、発送電分離論が再燃している。しかし、発送電分離とは余剰発電設備の存在を前提に、発電分野における競争を促進することを目的とするもので、余剰設備どころか電力不足が懸念されている状況下で議論する話ではない。
動画
アクセスランキング
- 24時間
- 週間
- 月間