なぜ私たちはNHKの誤報に抗議したのか、追跡!真相ファイル「低線量被ばく 揺れる国際基準」の捏造を巡って

2012年08月06日 16:00
アバター画像
エネルギー問題に発言する会代表幹事

1・はじめに

筆者は1960年代後半に大学院(機械工学専攻)を卒業し、重工業メーカーで約30年間にわたり原子力発電所の設計、開発、保守に携わってきた。2004年に第一線を退いてから原子力技術者OBの団体であるエネルギー問題に発言する会(通称:エネルギー会)に入会し、次世代層への技術伝承・人材育成、政策提言、マスコミ報道へ意見、雑誌などへ投稿、シンポジウムの開催など行なってきた。

今回の東電福島第一原子力発電所の事故では多くの方々に多大のご不便とご心労をおかけし、原子力関係者として痛恨の極みである。私たちは福島の復旧を願い、現地で活動している会員も多い。私たちが大変心を痛めていることのひとつに、住民の間に低線量放射線被ばくの健康影響への不安が拡がっていることである。

その原因の一つは一部のメディアによる偏った内容や事実誤認の報道だ。最も影響の大きかった報道は、NHKが平成23(2012)年12月28日に放映した、『追跡!真相ファイル「低線量被ばく 揺れる国際基準」』である。(注1)

私たちはNHKと3度に亘り意見交換交渉を行い、そこで対応が行われなかったために、放送倫理・番組検証機構(BPO)に、番組の訂正を求めて提訴中だ。(提訴関連資料

本稿では、この経緯を紹介したい。今の原子力報道の問題、つまり誤った情報によって社会混乱が誘発されている事実、さらに情報を提供するメディアの一部に無責任な体質があることを示すと思うためだ。

言うまでもなく、報道の自由と人々の原子力をめぐる活発な意見表明を、私たちは当然のことと受け止めている。しかし、それは事実に基づかなければならない。

2・NHK問題番組の内容 

東電福島原発事故後の福島県の復旧対策は、国際放射線防護委員会(ICRP)による「年間100mSv以下の放射線被ばくでは健康被害の報告は無い」という基本的考えに沿った防護基準を拠り所にして行なわれている。このICRP防護基準に対し、NHK番組は次のようなメッセージを視聴者に送った。しかし、これらは後で述べるように間違ったメッセージだったのである。

  1. チェルノブイリ事故の影響を受けたスェーデン、米国イリノイ州原発周辺などで、いずれもICRP基準よりもかなり低い被ばく線量でも健康障害があった。
  2. ICRP本部の関係者やOBに取材した結果、ICRPは低線量被ばくに関するリスクの適切な見直しを行なわず、防護基準を甘くしていることが判明した。
  3. ICRPは原発推進側が作った組織であり、安全規制値を決めるのはおかしい。

3・なぜ私たちはこの番組に抗議したのか−番組の誤り

前半のスウェーデンでの取材では、年間0.2mSvという放射線被ばくの数値と、ガンになる住民が34%増加したということが紹介された。両者の明らかな因果関係は無い。NHK制作者自身があとで紹介する意見交換会で認めている。

それにもかかわらず、NHK番組では「ICRPがほとんど影響がないとしている低線量でも、ガンになる人が増えていたのです」と断言した虚偽のナレーションを流している。

また、イリノイ州原発周辺住民に関する番組で次のナレーションを行った。

「原発から排出される汚水には放射性トリチウムが含まれていますが、アメリカ政府は国際基準以下なので影響ないとしてきました。しかし近くの町では、子供たちがガンなどの難病で亡くなっていました。足元のレンガには、これまで死んだ100名の名が刻まれています」。

一部住民側と行政側との間に意見の対立があるのは事実だが、住民側の主張を一方的に伝え、視聴者にトリチウムの影響で少女が脳腫瘍になり、100 人の子供が亡くなったという誤解を与える印象操作をしている。

次に、後半ではICRP関係者の英語による発言をNHKの意図に合うような日本語に誤訳し視聴者に誤解を与えた箇所が随所に見られる。中には改ざんと評していいものがある。

さらにICRPは防護基準を厳しくしているのに、間違った解釈により緩くしたと虚偽の内容にしている箇所がいくつもある。誤訳や間違った解釈の根拠については、エネルギー会ホームページ掲載のBPO審議要求文書を見て欲しい。

最後に番組に出演した女性作家が「ICRP 自体が原発を進めたい側がつくった組織だから、安全規制値を決めてはいけないわけですよね」と発言している。

事実はこうだ。番組で紹介されたICRP の運営資金の5つの主要な拠出組織のうち、米・独・加・EU 委員会は規制組織もしくは直接原発推進に係らない組織だ。日本からの拠出も安全規制の為の研究をしていた旧原研であった。

2007 年に旧原研が旧サイクル機構と統合して日本原子力研究開発機構となった時にICRPへの拠出も引き継がれたが、本来推進機関としての拠出ではない。従って「ICRP は原発推進側が作った組織である」との発言は虚偽の解釈に基づくもので視聴者に誤解を与えるものだ。

ちなみに、ICRP(国際放射線防護委員会)は専門家の立場から非営利、非政府の放射線防護に関する国際学術組織であり、原発ができるはるか以前の1928年に設立されている。そしてICRP勧告の多くはわが国が導入しているだけではなく、IAEA(国際原子力機関)で基準化され、世界各国の放射性物質の安全な取り扱いや原子力施設の安全な設計・運転などの規制に反映されている。

4・NHK会長への抗議書提出

この番組を見た多くの会員から筆者に、この番組には多くの虚偽があり視聴者に誤解を与え福島の復旧に大きな影響を及ぼすからNHKに抗議すべしとの連絡をもらった。そこで年末年始にかけて抗議文を起草し会員に諮った。抗議文の最後には、問題指摘事項の厳正な調査、事実誤認が判明した場合の公式な発表、今後の慎重かつ公正公平な番組制作の3点を要望した。

そして、今年1月12日付けでNHK松本正之会長と同番組のチーフディレクター宛に賛同者112名の氏名を記した抗議文を郵送し、同時に私たちの団体のホームページ(上記)にも公開した。
 
その後2週間経った1月26日にNHKチーフディレクターから筆者に電話で、意見交換がしたいとの連絡があった。

5・意見交換におけるNHKの不誠実な対応

さて、NHK制作担当との意見交換会は、NHK社会報道部の部長以下4人と筆者ほか前記特別チームメンバーとの間で計3回行なった。

1回目の2月8日では放送倫理基本綱領に抵触することを多くの問題箇所ごとに聞いた。

2回目の3月5日には事実誤認、誤報道に絞った10件の問題指摘文書に書き直した文書を提出した。

3回目の4月25日には番組ナレーションの言葉とこれまでのNHKの説明とが明らかに矛盾している5点に絞った事実関係確認文書を提出し、公開を前提とした回答文書の提出を求めた。

いずれの回でもNHKは取材したことをそのまま並べただけの一点張りで、取材したことの事実関係追求はおざなりで、都合の良いように誤訳や誤った解釈をし、都合の悪いことは報道しない、個々の問題を正面から質問すると黙ってしまう。福島でこの番組を見て不安になった人の話をしても、反省や謝罪という言葉は絶対に口にしようとしない。

彼らには意見交換会をしたというアリバイ作りの為の打ち合わせだったのだ。そして5月10日には、公開を前提とした回答は出来ないとの最後の連絡がきた。5ヶ月間憤慨し、慨嘆し、失望で終った。

6・放送倫理・番組検証機構への提訴

NHK会長宛の抗議文で私たちが要望した3点は、NHKとの約5ヶ月に亘る直接対話では全く期待できないと判断し、第三者による検証に委ねることとした。特別チームで相談し、放送倫理・番組検証機構(BPO)の放送倫理検証委員会に審議していただくよう、提訴(私たちは審議願いという言葉を使ったが)することとした。

筆者は改めて7項目の事実誤認事項に整理して資料を作成し、新たな137名の賛同会員の氏名を記して、放映から丁度半年経った6月28日にBPO事務局に郵送した。この番組が社会に悪影響を与えている証拠として、5月に富山駅前で俳優山本太郎氏が東北の瓦礫受け入れ拒否運動で配布したチラシ(「NHK番組で、ICRPには何の科学的根拠もないことが報道された」と記してある)も添付した。これらの文書もエネルギー会のホームページに掲載している。

7月2日にBPO事務局に私たちの文書の受領を確認したが、7月末現在BPOで審議するのかしないのかの連絡はまだない。状況が変化したらお知らせしたい。

7・メディア報道への要望

筆者が今度の経験から知ったことは、NHKには放送協会の内部規律として最も重要な放送倫理が徹底されていないこと、そして番組企画段階で放送倫理の審査制度もないということだ。民間企業出身の筆者には信じられない組織だ。国民からの受信料で成り立っている公共放送であることを今一度幹部から記者に至るまで良く噛み締めて襟を正し、透明性のある放送倫理徹底制度を構築することを強く要望したい。

加えて報道にたずさわる方にもお願いしたい。3・11と福島原発事故以降、放射能と原子力めぐる誤った情報が社会に広がった。嘘を流すことをやめるのは当然として、危険性を過度に強調したり、専門家の検証を経ない情報を流したりするのではなく、正確な情報を提供してほしい。

事故の結果、原子力への信頼がなくなり、研究者・技術者の言葉を社会に受け止めていただけないことは理解するし、私たちも原子力に関わった人間として深く反省している。しかし間違った情報は、原発の賛成・反対にかかわらず、社会を混乱させていく。エネルギー、原子力をめぐる現状を、私たちは深く憂慮している。

最後に、2月7日に筆者あてに「私は都内在住の主婦です。・・」という書き出しで頂いた匿名メールを紹介する。

「・・・・報道の立場から、俗説、定説に疑問を投げかけることは大切です。ICRPの勧告は・・・・膨大なデータ、資料、諸説と格闘しながら合意を得て作られた内容が、オールマイティとは言わないまでも、これを軸にしなくて、いったい何を基準、指針とすることが出来るのでしょう?・・・・勿論、権威を絶対視することは危険ですが、権威はそれなりの意味があって与えられているのです。これを信じない、・・・・ならば何をガイドとして私たちは歩けばよいのでしょうか?もはや高度で厳格な権威をもなじるこの日本の風潮こそ恐ろしいことになってきたと私は感じます。

私がNHKのあの番組で一番危惧したことは、現在の放射能汚染問題に立ち向かい福島県を復興させていこうという地元、支援している研究者、国に対し、周囲の国民を暗に後ろ向きにさせるマジックが潜んでいるということでした。

・・・私が理解していた公共放送とは、「本当に脱原発で日本は大丈夫なのか?」を検証し続ける立場です。 ホルムズ危機、輸出減、実に危機は目の前に迫っています。この度の抗議は、NHKディレクターを叩くのではなく、この方が同じ過ちを犯さないために、そして、良質な番組を提供頂くことを促して頂けるものと思っております。草々」

(注1)私たちのNHKに対する一連の抗議活動は、賛同頂いた多くの会員の支援の下、特別チームを組織して行った。その主要メンバーは、石井正則(元メーカー)、河田東海夫(元研究者)、齋藤修(元研究者)、松永一郎(元原子力燃料会社)と筆者の5人のシニア技術者である。また、会員とはエネルギー会のほか、原子力学会シニアネット連絡会(齋藤伸三会長)、エネルギー戦略研究会(金子熊夫会長)の3団体の会員である。

(2012年8月6日掲載)

This page as PDF
アバター画像
エネルギー問題に発言する会代表幹事

関連記事

  • 原発事故に直面した福島県の復興は急務だ。しかし同県で原発周辺の沿海にある浜通り地区でそれが進まない。事故で拡散した放射線物質の除染の遅れが一因だ。「被ばく水準を年1ミリシーベルト(mSv)にする」という、即座の実現が不可能な目標を政府が掲げていることが影響している。
  • 本年1月17日、ドイツ西部での炭鉱拡張工事に対する環境活動家の抗議行動にスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリが参加し、警察に一時身柄を拘束されたということがニュースになった。 ロシアからの天然ガスに大きく依存して
  • 電力危機の話で、わかりにくいのは「なぜ発電所が足りないのか」という問題である。原発が再稼動できないからだ、というのは正しくない。もちろん再稼動したほうがいいが、火力発電設備は十分ある。それが毎年400万kWも廃止されるか
  • 透明性が高くなったのは原子力規制委員会だけ 昨年(2016年)1月実施した国際原子力機関(IAEA)による総合規制評価サービス(IRRS)で、海外の専門家から褒められたのは組織の透明性と規制基準の迅速な整備の2つだけだ。
  • IPCCの報告がこの8月に出た。これは第1部会報告と呼ばれるもので、地球温暖化の科学的知見についてまとめたものだ。何度かに分けて、気になった論点をまとめてゆこう。 欧州で旱魃が起きたことは、近年の「気候危機」説の盛り上が
  • (GEPR編集部より)サウジアラビアの情勢は、日本から地理的に遠く、また王族への不敬罪があり、言論の自由も抑制されていて正確な情報が伝わりません。エネルギーアナリストの岩瀬昇さんのブログから、国王の動静についての記事を紹介します。
  • CO2濃度を知っているのは10人に1人、半数は10%以上と思っている事実 2021~22年にかけて、短大生222人とその家族や友人合わせて計641人に、大気中の二酸化炭素濃度を尋ねた結果、回答者全体の約11%が0.1%未
  • 近年における科学・技術の急速な進歩は、人類の発展に大きな寄与をもたらした一方、その危険性をも露わにした。典型的な例は、原子核物理学の進歩から生じた核兵器であり、人間の頭脳の代わりと期待されたコンピュータの発展は、AI兵器

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑