なぜ科学は放射能パニックを説得できないのか — 被害者・加害者になった同胞を救うために社会学的調査が必要

2012年04月09日 09:00
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翻訳家・立教大学社会学部兼任講師・博士(比較文明学)

放射能パニックの社会科学的・人文科学的側面

私は東京23区の西側、稲城市という所に住んでいる。この土地は震災前から現在に到るまで空間線量率に目立った変化は無いので、現在の科学的知見に照らし合わせる限りにおいて、この土地での育児において福島原発事故に由来するリスクは、子供たちを取り巻く様々なリスクの中ではごく小さなものと私は考えている。

とはいえこの街でも、いわゆる放射能パニックが無かったわけではない。例えば、里山の落ち葉を使っての焼き芋会をやろうとしたところ、放射性物質の拡散を懸念する意見が寄せられて落ち葉焚きが中止に追い込まれたという話がある。また、息子が幼稚園で仲良くしていた友達が、震災発生直後にどこかに引っ越して行ってしまったということもあった。この突然の引っ越しは、「ママ友」たちにとっては、それについて語ることそのものが今もなお難しいような記憶となって残っているようである。

このように、福島原発事故は、現場から遠く離れた場所においても、自然科学的に見たそのリスクの小ささとは裏腹に、人々の心を傷つけ、人と人の繋がりを断ち切る方向に作用している。これは主に社会科学的、あるいは人文科学的な問題と言えよう。

生活世界に侵入した混沌としての「放射能」

では何故、実際のリスクに比して不自然なまでに激しい反応が人々の間に広がったのか? これについては既にリスク認知という視点から、充実した議論が積み重ねられている。だが、ここでは敢えて別の視点からこの問題について考えてみよう。

石川公彌子氏による、福島原発事故に由来する放射性物質が、日本民俗学における概念である「穢れ」の一種として一部では捉えられているのではないかという指摘は、「放射能」という概念がある種の人々の間でいかに作用しているのかという現象面を見た時、とても説得力があるものだ。(石川「穢れ思想とつくられた母親像から見えた放射能問題 —「現代化」問われる日本社会」GEPR)

だが、日本列島における伝統的な宇宙観や宗教と深く結びついた概念である「穢れ」のカテゴリーに放射能という新しい概念を加えるには、もう少し精密かつ慎重な調査と検討が必要と個人的には考えている。ここはもっと一般的な概念を使った方が良いのではないか。

例えば西洋中世史の分野で「社会史」という方法論を発展させた阿部謹也もまた、網野善彦が日本文化の中に見た「穢れ」に良く似た概念を、ドイツ中世史に見ていた。すなわち、日本列島において皮革職人や刑吏、芸能者たちが差別されていたのに類似して、中世のドイツにおいても刑吏、捕吏、看守、墓掘り、皮革職人、羊飼い、粉ひき職人、レンガ職人、塔守、楽士、浴場主、床屋、煙突掃除人、街路清掃人などが差別されていたというのだ。

このリストを見て首を傾げた方も多いのではないだろうか。例えば皮革職人すなわち家畜の死体に日常的に接する人々は日本列島においても被差別民であったが、何故、粉ひき職人や床屋が差別されていたのか? 阿部もこうした問題に単一の説明を与えているわけではなく、社会的な要因(国家権力への反感であるとか、同業組合の利権を犯す者への反感など)も大きかったであろうとしているが、それと同時に、中世ヨーロッパの人々の宇宙観も大きな影響を与えたのではないかと論じた。

彼ら・彼女らは人体や共同体を小宇宙、その外に広がる未知の世界を大宇宙として捉えていたが、彼ら・彼女らの生活は自分たちの熟知した小宇宙だけで完結するわけではなく、彼ら・彼女らが理解出来ない、制御出来ない大宇宙の力も利用しなければいけなかった。作物は土の力を借りる必要があったし、その作物を食べられる状態にするには火の力や水の力(水車による粉ひき)が必要だった。

彼ら・彼女らにとって、こうした大宇宙の力はまさに畏るべきものであり、必要最低限の範囲内でのみ共同体の内部に取り入れるに留めたいものであった。それ故、土や水や火など大宇宙の力を直接取り扱うような職業の人々が怖れられ、差別されるようになっていったのである。 [1]

こうした、日常の世界の外部にある畏るべきものについての観念が、人間社会においてどのような働きをしているかを論じた古典的な社会学の名著が、ピーター・バーガーの『聖なる天蓋』だ。この本の中でバーガーは、私たちは自らが存在する宇宙を秩序(ノモス)と混沌(カオス)の相克として捉え、私たちの知識によって秩序が保たれている(と感じられている)生活世界に、未知なるもの、理解し難いもの(混沌)が侵入してくることは、人々に恐怖を呼び起こすと指摘した。そこで人々は、かつては主に宗教によって、後には科学によって、理解し難いものを何らかの形で理解しうるものへと変換し、恐怖を取り除いてきたというのが、バーガーの考えだ。

人間存在の根源に根ざす宗教的な恐怖心

そろそろ放射能の話に戻ろう。

いわゆる放射能パニックに陥っている人々は、これまでの自然科学の議論の積み重ねと、その成果としての福島原発事故由来の放射性物質のリスク評価が信頼できない状態にあると解釈出来る。それ故に、日常世界の外から侵入してきた理解し難い混沌に畏れおののいているのであろう。これは、科学的というよりは宗教的な恐怖である。とするならば、いくら自然科学の最新の知見を示して「落ち着け」「冷静に」と呼びかけてみても、大きな効果は期待出来ない。何しろ、問題は人間存在のより根源的な部分で発生している恐怖なのだ。問題の審級が一つ深いのである。

一方で、沖縄県での青森県の雪の受け入れを巡る紛争、津波由来のガレキの広域処理の問題、東北・北関東地方産の農水産物を巡る風評被害の問題など、放射能パニックが日本社会に看過出来ない悪影響を与えていることも事実である。放射能パニックを起こしている人々には被害者の側面と同時に加害者の側面もあるのだ。そして日本社会は、被害者としても加害者としても、彼ら・彼女らを放置しておいて良いものではない。彼ら・彼女らもまた我々の同胞であり、巨視的な視点から見れば、同じ運命共同体のメンバーなのだから。

放射能パニックへの対応も科学的かつ客観的に

では、日本社会はこの問題にどのように向き合うべきなのか。

これから私たちが、特に社会学者がやらなければならないのは、放射能パニックを起こしている人々が、今現在どこにどれだけいるのか、どのような生活をしているのか、どんなことを日々感じ、考えているのかということを、きちんとしたリサーチデザインを持つ社会調査によって、把握していくという作業であると私は思う。管見の限りでは、こうした社会調査は、宝田惇史氏によるもの(「「ホットスポット」問題が生んだ地域再生運動――首都圏・柏から岡山まで」山下祐介・開沼博編著『「原発避難」論』所収)のみである。

宝田氏の研究は、いわゆる「自主避難」をしている人々がSNSやメールなどインターネットを上のコミュニケーション手段に支えられている側面が大きいことや、武田邦彦・児玉龍彦・早川由起夫の3氏の主張を選択的に重視していることを社会調査によって明らかにしている点で大変貴重なものである。

だが、この論文だけでこうした人々のことを理解したつもりになってしまうことは避けるべきで、まだまだ基本的な調査が不足している。だが、放射能に対してと同じように、社会問題についても、考えようとする対象について可能な限り客観的で詳細な情報を手に入れることが、まずは必要なのだ。

というのも、社会で広く信じられている知識や理論への信頼感(バーガーの用語では「信憑構造」と呼ぶ)が持てなくなった人々のケアは、地道で気長な信頼関係の醸成を通してしか進めることが出来ないからである。

既に述べたように、問題は科学の理論の問題ではない以上、例えば武田氏や早川氏の主張を、科学的・論理的に論破して見せたところで意味は無い。そうした時に頼りになるのは、個人と個人の間で成立する人間としての信頼関係だ。世界観や信条は違うけれども人間としては信頼出来る、そういう関係が、放射能パニックを起こしている人とそうでない人との間に数多く成立していてこそ、放射能パニックを起こしている人々が社会から孤立し、SNSやメールによる同質的なコミュニティにのみ所属するようになるという状況を回避出来るのである。

だが、現状では、放射能パニックを起こしている人が具体的にどこにどれだけ居るのかということさえ判っていない。だからこそ、まずは社会調査をと筆者は主張するのである。

震災より1年を経て、これまでは「震災」の問題としてひとまとめに扱われてきた様々な社会問題を、高台移転の問題、ガレキ処理の問題、避難者の問題、エネルギー問題、原発再稼働の問題など、様々な問題に切り分けて科学的かつ客観的に論じていこうという雰囲気になりつつあると感じる。ならば、放射能パニックの問題もまた、震災由来の社会問題の一つとして、科学的な方法論を用いて向き合っていくべきではないだろうか。

[1]単に見下げるだけの蔑視ではなく、恐怖や畏怖の感情も多分に含んだものとして阿部は「賤視」という言葉を使っている。

加藤晃生(かとう・こうせい)
専門は音楽社会学、環境社会学等。近著論文は「ポリネシアのメタファーとしての『CORONA』」(『ユリイカ2012年1月増刊号:総特集 石川直樹 エベレストから路地裏までを駆ける魂』)、「地域史の中に里山活動を位置づける~いなぎ里山グリーンワークに注目して~」(『多摩ニュータウン研究』14号・印刷中)他

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