IPCC AR6統合報告書が“密かに”示すこと

2023年07月30日 06:50
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国際環境経済研究所主席研究員

去る6月23日に筆者は、IPCC(国連気候変動政府間パネル)の議長ホーセン・リー博士を招いて経団連会館で開催された、日本エネルギー経済研究所主催の国際シンポジウムに、産業界からのコメンテーターとして登壇させていただいた。

当日は初めにリー議長から、今年3月に公表されたIPCCの第6次統合報告書(AR6)の概要について講演があった。

そのなかでリー委員長は、世界が目指す1.5℃目標の実現には残された時間は少なく、温室効果ガス(GHG)の排出を今後7年間、毎年7%ずつ削減していく必要があり、それは極めて難しいチャレンジであることを指摘。

一方で、それに必要な技術は既に存在し、先進国は自ら対策を進めて2040年までにネットゼロ排出を目指すと同時に、途上国の対策を加速することが必要であり、先進国が途上国の削減に向けていかに技術や資金提供していくかが重要である、といった点を指摘した。

こうしたAR6の要旨に対して、主催者である日本エネルギー経済研究所から、筆者を含むコメンテーターに対して、現実には世界のGHG排出が増え続けている中で残された時間は少なくなっており、現実とのギャップが拡大している点や、とりわけ排出拡大が続く途上国の削減を実効あるものにするための課題などについて、コメントが求められ、リー議長を交えたディスカッションが行われた。

筆者は登壇するにあたり、第6次統合報告書の政策立案者向け要約(AR6-SPM)の全文と、要約前の本報告書(Longer Report)の一部を読み込んで準備したのであるが、議長の講演の中や、この報告書を受けて内外のメディアが報じた記事等では注目されていない、いくつかの重要と思われる論点や、統合報告書が声高に語らないものの「つつましく」記載、ないしは暗喩している事実についてコメントさせていただいたので、本稿ではそれらについて再構成して紹介していくことにする。

NicoElNino/iStock

AR6は、COP26でパリ協定の気温上昇抑制目標が、従来の2℃目標から1.5℃目標に事実上引き上げられてから初めてIPCCが公表した報告書であり、2014年の第5次報告書(AR5)以降、2021年秋までの期間に、1.5℃目標達成に向けて世界中で発表された様々な査読付き研究論文をもとにアセスメントが行われ、取り纏められている。

ただし興味深いことに、よく読むと同じ温度抑制目標であっても、2℃目標と1.5℃目標ではその前提が異なっているのである。2℃目標実現を描くシナリオの前提は、世界全体の平均気温上昇を産業革命以前から「2℃以内に67%の確率で抑える」こととされている一方で、1.5℃目標の実現を描くシナリオでは、平均気温上昇を「ゼロまたは小さなオーバーシュートを伴って50%の確率で1.5℃以内に収める」ためには何が必要かについて評価されている。

先ず同じ気温上昇抑制シナリオでも1.5℃と2℃では、想定する実現確率が異なっているのである。さらに1.5℃目標の場合には、一旦気温上昇1.5℃を上回る温暖化を容認するものの、その後の対策の強化(いわゆる負の排出対策による温室効果ガス除去)により、長期的な気温の低下を実現して、再び1.5℃以内に戻すという「オーバーシュート」を許容して実現することが想定されているのである。つまり2℃目標と1.5℃目標は等価な目標ではないのである。

ではなぜ1.5℃目標では低い達成確率を許し、さらにオーバーシュートが許容されているのかと考えると、報告書に明記はされていないものの、1.5℃目標を2℃目標と同じ67%の確率で、オーバーシュートなしに達成する道筋は、あまりにも現実性がないために、IPCCが評価した論文の中ではそうした研究は行えなかった(シミュレーションモデルで描く解が得られなかった)のではないかと思われる。

これはあくまで筆者の推察ではあるが、報告書の中にはそうした説明を含めて、この点には触れられていない。

このように、実は異なる前提に立った2つの目標(2℃、1.5℃)を設定したうえで、AR6-SPMでは、今後どれだけの追加的なGHG排出が許容されるかという、いわゆる「カーボンバジェット」の試算値が紹介されている。

先ず気温上昇を1.5℃以内に抑える場合、2019年以降に残されたカーボンバジェットは500ギガトン(CO2e)であるのに対し、2℃以内に抑える場合は1150ギガトンが許されるとされている注1)

世界は2020年代に入っても毎年およそ50ギガトンのGHG排出を続けているので、1.5℃目標を達成するには残された時間が10年しかない(23年以降であれば7年しか残されていない)ということになる。これがマスコミ報道や、シンポジウムでリー議長が言及したような「緊急事態宣言」に繋がるわけである。

しかしこれはもう少し冷静かつ定量的に考えてみる必要がある。IPCCの報告書によれば、1.5℃目標と2℃目標の差、つまり気温上昇の抑制幅の僅か0.5℃の違いだけで、カーボンバジェットが倍半分も違う(絶対量で見ると650ギガトンも違ってくる)のである。

実際、AR6-SPMのTableSPM.1を見ると、2℃目標を達成するためのパスゥエイ(排出経路)の場合、GHG削減目標は2050年で2019年比64%削減にとどまり、2030年は21%削減で目標に整合し、ネットゼロ達成期日は2070年となっている。これは同じTable SPM.1で1.5℃目標を達成するために必要とされる2030年43%、2050年84%削減という厳しい削減目標と比べて、はるかに緩い削減対策になる注2)

そこでシンポジウムの当日、筆者はリー議長に対して、「報告書にある1.5℃シナリオの場合、1.5℃を一時的に超えることを許容する『小さなオーバーシュート』を伴って50%の確率で1.5℃目標を達成することを想定しているが、ここでいうオーバーシュートは何℃くらいが想定されているのか?」と質問してみたところ、議長の答えは、約0.2~0.3℃のオーバーシュートが想定されているというものであった。

つまりAR6が示す「1.5℃目標」では、実は一時的にせよ、世界の平均気温が1.7~1.8℃まで気温上昇することも許容されていることになる。はたしてそうした前提の「1.5℃目標」を達成しようとした場合、許容されるカーボンバジェットは500ギガトンなのだろうか?それとも500ギガトン(1.5℃目標)と1150ギガトン(2℃目標)の中間の825ギガトン前後なのだろうか?(この場合、一旦825ギガトンに到達した後に、負の排出対策により大気中のGHG濃度を下げて1.5℃まで下げるというシナリオになる)

AR6のカーボンバジェットを記載する部分に、そうしたオーバーシュートを想定しているかどうかという疑問に答えるヒントは記載されていない(1.5℃目標に言及している他のほとんどの箇所では、必ず「オーバーシュートを伴わない、もしくは小さなオーバーシュートを伴って」という但し書きがついている)。

次に、こうした厳しい1.5℃目標を達成するためには、莫大なコストをかけて削減対策を講じていく必要があるのだが、それにかけるコストと、得られる便益(メリット)の間の帳尻はあっているのだろうか?という疑問が当然生じてくる。

議長が発言したような「極めて厳しいチャレンジ」を行っていくには、それ相応のコストをかける必要があるわけだが、それによって世界は十分なリターンを得ることができるのでなければ、努力は徒労に終わってしまう。

対策のコストベネフィット分析については、AR6-SPMのC.2.4に、実に「さらっと」記載されている。

曰く、

コストベネフィット分析は、気候変動による被害を回避する効果をすべて反映する能力に依然として欠けている。(中略)評価したほとんどの文献によれば、潜在的な被害の回避メリットを全く考慮しなくても、温暖化を2℃以内に抑えることによるグローバルな経済的、社会的便益は、削減コストを上回る(中程度の確信度)注3)

とされている。

これは良いニュースだが、ここで言っているのは2℃目標を達成する場合の話である。では肝心の1.5℃目標を達成する場合のコストベネフィット分析はどうなっているのだろうか?

実は1.5℃目標の費用便益分析については、AR6-SPMのP26の脚注に小さく、

温暖化を1.5℃以内に抑える場合(のコストベネフィット分析)について、確固とした結論を得るような証拠はあまりにも少ない。1.5℃に抑制するコストは2℃に抑制するコストに比べて大きくなるが、一方で影響やリスクの緩和と適応の必要性の抑制というベネフィットは大きくなる注4)

と、当たり前のことを定性的、かつあいまいに記載するに留まっているのである。

これが「科学を根拠とした1.5℃目標」について、その科学的根拠の経典ともいえるIPCCのAR6が示した「科学的知見」なのである。既述のように、AR6によればカーボンバジェットは1.5℃と2℃では倍半分も違うので、オーバーシュートを考慮せずに1.5℃目標を達成しようとした場合、必要とされる対策の強度やスピードもけた違いに大きくなることは必至である。

2℃目標を達成するための2030年21%削減目標(GHG)なら、AR6-SPMのC.2.4にあるように、経済的な便益を維持しながら対策を実行することには、それなりに現実性があるように思われる。

しかし1.5℃目標のために30年43%、50年84%といった削減を実現する、はるかに野心的なパスウェイを実現しようとすると、いったい何が起きるのか? それについてはAR6-SPMのC.2.5に、いみじくも以下のように明記されている。

野心的な削減パスウェイは、既存の経済構造への甚大な、時には破壊的な変化と、各国内、各国間の分配に対する甚大な影響を暗示(imply)する注5)

この記述が意味するのは、1.5℃目標を達成する対策は、それを実行する政治的、経済的コストが、現実の社会が耐えられないくらい大きくなったり(破壊的変化)、負担の不公平性の顕在化による各国間の紛争や、国際関係の不安定化を招くといった形で、気候変動リスクとは別の、社会的リスクをもたらす可能性を警告しているということだと読者は気付くべきだろう。

さらに言えば、AR6で評価された多くの削減シナリオは、世界が協調して一丸となって削減に取り組むことで、世界全体で費用最小化しながら効率的、効果的に取り組むことが、対策の実現可能性を高めるとしているのだが注6)、ロシアによるウクライナ侵攻や米中の厳しい経済対立を見ても、現実の世界は必ずしもそうなっていない。対策の費用も不公平性も拡大するリスクに世界は直面している。

世間では、IPCC AR6統合報告書が世界に投げかけているメッセージとして、1.5℃目標達成に向けた必要性や緊急性、またそれが極めてチャレンジングだが「技術的に」達成できる可能性があることばかりが強調されているが、そのチャレンジが、例えば2℃目標に挑戦するのに比べて費用対便益が大きくなるのか、またそもそも1.5℃目標を達成した場合の便益は費用よりも大きいのか?といった、読者が一番知りたいはずの情報については明確に記載されていない。

ここでいう読者とは、IPCCの報告書のサマリーが「政策立案者向けサマリー」とされてるように、政策立案者、つまり各国の政府なのである。

さて、ここまで書いてきた通り、筆者がAR6の各所に微妙な表現や確率的既述の陰に込められている科学的メッセージを読み、相互に関連付けることで理解した、政策立案者が理解すべき影のメッセージは、以下のように要約することができるのではないか。

様々な研究論文から得られる現在の科学的知見では、世界はGHG排出を2019年比で2030年までに43%、2050年84%削減することで、五分五分の確率で気温上昇を産業革命以前と比べて1.5℃に抑えることができる。ただしここでは、一時的に気温上昇が1.7~1.8℃までオーバーシュートした後に、負の排出対策により1.5℃に戻すシナリオも含まれている。

この1.5℃目標の削減対策は極めて野心的であり、対策を実行するためにかけるコストより、温暖化を抑制することで得られるメリットの方が大きいという、2℃目標実現の場合にそこそこ確信できる知見が、1.5℃目標の場合でも当てはまるかどうかを判断するには、科学的知見が足りない。

一方、1.5℃目標に向けた野心的な対策を実施すると、既存の経済構造への甚大な、時には破壊的な変化と、各国内、各国間の分配に対する甚大な影響が及ぶことが示唆される(それでも気温は5割の確率で長期的に1.5℃を超える可能性がある)。

さて、今般のIPCC AR6の「科学を根拠とした最新の知見」に、実はこうしたメッセージも密かに記載されているのですよと言われたとき、果たして世界の政策立案者たちは、1.5℃目標という野心的な目標に向けて、莫大なコストをかけて一心不乱に取り組んでいくという判断をするものだろうか?

注1)AR6-SPM B5.2による。ここでは1.5℃目標のシナリオ分析に仮定されている一時的な気温のオーバーシュートをどれだけ仮定したかについては記載されていない。

注2)この削減量はGHG全体であり、CO2排出削減量については、1.5℃目標で2050年99%削減、2030年48%削減として、いわゆる「30年半減、50年ネットゼロ」が示されている。

注3)AR6.SPM C.2.4:”Even without accounting for all the benefits of avoiding potential damages the global economic and social benefit of limiting global warming to 2°C exceeds the cost of mitigation in most of the assessed literature” (medium confidence)

注4)AR6-SMP P26 脚注50:”The evidence is too limited to make a similar robust conclusion for limiting warming to 1.5°C. Limiting global warming to 1.5°C instead of 2°C would increase the costs of mitigation, but also increase the benefits in terms of reduced impacts and related risks, and reduced adaptation needs.”

注5)AR6.SPM C.2.5: “Ambitious mitigation pathways imply large and sometimes disruptive changes in existing economic structures, with significant distributional consequences within and between countries.”

注6)AR6-SPM E.1.3: “Strengthened and coordinated near-term actions in cost-effective modelled global pathways that limit warming to 2°C (>67%) or lower, reduce the overall risks to the feasibility of the system transitions, compared to modelled pathways with relatively delayed or uncoordinated action.”

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