ベトナム戦争体験者の証言(上)-「後方」「エネルギー安保」を考える材料として

今年は、太平洋戦争(大東亜戦争)終結70周年であると同時に、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)終結40周年でもある。サイゴン陥落(1975年4月30日)と言う極めてドラマティックな形で終わったあの悲劇的な戦争については、立場や年齢によって各人それぞれの思いがあろうが、筆者にとっても特別な思いがある。
私事ながら、当時駆け出しの外交官であった筆者は、ベトナム戦争最盛期の1966から68年までの2年半、旧ベトナム共和国(南越)の首都であったサイゴン(現ホーチミン市)の日本大使館に政務書記官として勤務していた経験を持つ。その間、文字通り死と隣り合わせのような危険にいくたびも遭遇した。とくに忘れられないのは、1968年1月末の歴史的な「テト攻勢」(旧正月の休戦期間中に突発した共産軍側の一斉蜂起)の際の体験である。
テト攻勢中のフエで死線をさまよう
周知のように、この攻勢は約15年に及ぶベトナム戦争のハイライトで、あたかも太平洋戦争中のミッドウェイ海戦(1942年6月)のように、戦争全体の勝敗を左右する戦いであった。それまでは、米軍は55万という大兵力を投入して、北緯17度以南の南ベトナム全土にわたって猛攻撃を展開していた。さらにB52大型戦略爆撃機によるハノイなど北ベトナムの大都市に対する無差別、絨毯爆撃、いわゆる「北爆」を頻繁に行っていた。しかし、このテト攻勢で一時的にせよ決定的な敗北を喫した米軍は、ついに最後まで劣勢を挽回することはできなかった。
テト攻勢では、首都サイゴンも解放軍兵士(いわゆる「ベトコン」)に制圧され、米国大使館自体に解放軍兵士が突入した。他の主要都市も軒並み攻撃を受けたが、その中で最も激しい戦闘が最も長く続いたのは、中部ベトナムの古都フエにおいてであった。そのフエに、たまたま攻撃開始の2日前から出張していた筆者は、そこで突然、猛烈な市街戦に巻き込まれ、約10日間文字通り生死の危機に晒(さら)されたわけである。
攻勢開始後、最初の1週間ほどは、共産側(北越の正規軍と南越解放戦線=ベトコン)が圧倒的に優勢で、筆者は現地人たちと共に共産軍の支配下にあり、彼らと連日運命を共にしていたが、その後徐々に米軍と南越政府軍が劣勢を挽回し、目前まで米軍の海兵隊の第一陣が迫ってきた。
戦場で「中立」はあり得ない
フエ大学構内の比較的堅牢な建物に身を潜めていた筆者は、いつの段階でそこから出て、米軍に救出を求めるべきか、大いに迷った。一つタイミングを間違えると、どこからベトコンの狙撃に遭うかもしれない。それまで日本の外交官であることを隠していたが、米軍の味方だとわかれば当然背後から狙われる。かといって、いつまでもベトコンの近辺にいると、米軍の攻撃の対象となる。
まさにぎりぎりの状況で、自らの判断力に頼る以外になかった。そのとき改めて痛感したのは、現代の戦争(主にゲリラ戦争)において「中立」はあり得ない、自分は中立だと思っていても交戦者同士がそれを認めてくれるわけではない、最後は結局どちらかの側に立たねばならず、どちらの側に立つか自分で選択し、はっきり意思表示しなければならないということであった。
正直に告白すれば、テト攻勢勃発以前に筆者は、公務上は当然米国の政策を支持し、可能な限り支援する立場であったが、内心では多くの日本人と同様に米国のベトナム政策に懐疑的、批判的で、いわば傍観者の立場に立っていた。しかし、フエの体験でそうした考え方の甘さを思い知らされた。これが筆者にとっての第一の開眼である。
動くものは何でもまず撃つ
次に、何とか米軍に無事救出され、フエ郊外の臨時の米軍基地にしばらく身を寄せた。まだ北越軍やベトコンが町を包囲している状況で、フエからダナンの米軍基地まで脱出するヘリコプターの空きがなかったからだ。戦死者や負傷兵の輸送が最優先だ。その間も共産側が米軍基地のすぐ近くまで攻撃を仕掛けてくる。
とくに厄介なのは、毎晩の夜襲で、応戦する米兵たちも必死だ。野戦では、動くものは何でもまず撃つ。撃たなければこちらがやられる。米兵たちの多くはつい最近まで大学生だったような若者たちで、睡眠不足と極度の緊張で目を真っ赤にして銃にしがみついている。
突然、その中の一人が、傍で「観戦」していた筆者に黙って小銃を差出し、撃ってみろと目で合図する。米軍のM16ライフル銃は、ずっしりしていて、ベトコンなどが使うAK47(カラシニコフ銃)より数倍重い。米軍基地で保護を受け、「一宿一飯の恩義」もあるので、ついその銃を手に取りかけたが、思いとどまった。
後方支援活動で土嚢造りを手伝う
テト攻勢の直前、東京からベトナムに視察に来ていた防衛研修所のK教官が、米軍の戦闘機に乗ったというので、国会で問題化したことを思い出したからだ。フエの基地にも各国のベテラン従軍記者やカメラマンが多数おり(その中には、友人で、ピュリッツァー賞カメラマンの澤田教一氏もいた)、どこで写真に撮られるかわからない。戦争を放棄した国の外交官がベトコンを銃で攻撃していたとなったら、ただではすまない。
そこで、とっさに思いついたのは、銃を取る代わりに、土嚢(どのう)を作るお手伝いをすることだった。ベトコン側の迫撃砲弾が絶えず基地内に落ちてくるので、米兵たちは、鉄板を二重、三重に重ね、その上に土嚢を沢山積んで、その下で仮眠をとるので、土嚢はいくらあっても足りない。というわけで、筆者は昼間はシャベルで土を掘って土嚢造りに精を出した。これなら直接戦闘に参加したことにはならず、「後方支援活動」だから日本国憲法第9条にも抵触しないだろうと判断した。もちろん当時はまだそのような概念は日本国内にはなかったが。
この話は、今回初めて公表するもので、当時大使にも外務大臣にも報告した記憶はない。いずれにせよ、フエでの10日間の異常な体験は、その後の筆者の外交官としての、というより日本人としての考え方と行動に少なからぬ影響を与えたことは間違いない。
(下)に続く。
金子熊夫(かねこ・くまお) 外交評論家、エネルギー戦略研究会(EEE会議)会長。元外交官、初代外務省原子力課長、元日本国際問題研究所長代行、元東海大学教授(国際政治学)。1960年代半ばに旧南ベトナムの首都サイゴンの日本大使館に勤務。また、1970年代には国連環境計画(UNEP)アジア太平洋地域代表などを歴任。1937年生まれ(78歳)。
(2015年6月8日掲載)

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